応募期間 2004年1月10日〜2004年12月31日
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1年間を通じて、あなたと腕時計との出会い、思い出を綴ったエッセイを募集します。優秀作品は、月ごとに月間ベストエッセイとして発表、月間ベストエッセイ受賞者には、「kodomo-seikoオリジナル腕時計」をプレゼントいたします。あなたの腕時計の思い出、そしてあなたが腕時計と共に過ごした時間のことを800字以内で書いてお送りください。皆様からの応募をお待ちしております。
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2004年の作品
1月-2月 3月 4月 5月 6月-7月 8月-9月 10月-11月 12月
6-7月の作品(19作品)
6月度のベストエッセイ審査に当たって、応募作品数が少なかったため、事務局で協議の結果、7月度応募作品と合わせて審査させていただくことにいたしました。よろしくお願いいたします。
「想い出と現実」風子さんのエッセイ
「日焼けの跡」西田 和哲さんのエッセイ
「時計は、やっぱりセイコーJAPAN」中島 智子さんのエッセイ
「ピッタリを探して」kamekameさんのエッセイ
「妻に貰った腕時計 (時計のようにいつまでも)」ほうやはるあきさんのエッセイ (6-7月のベストエッセイ)
「パパと息子の、変身ツール今むかし。」新 和久さんのエッセイ
「おばちゃんの思い出」Yukioさんのエッセイ (6-7月のベストエッセイ)
「叔母が残してくれたもの」兼平 裕子さんのエッセイ
「とまってくれないのはなぜ??」あゆみさんのエッセイ
「父と赤い腕時計」まこさんのエッセイ
「還暦。」畠山 恵美さんのエッセイ
「千円の時計」あゆみさんのエッセイ
「退職後も働いてくれた時計」稲木 英生さんのエッセイ
「腕時計と天使の笑顔」川又 智子さんのエッセイ
「白い腕時計の想い出」島田 由美子さんのエッセイ
「夏に向かう花」ばろんばろん さんのエッセイ
「足首時計」風吹 とうげさんのエッセイ
「大切にする方法。」小夜子さんのエッセイ
「腕時計と腹時計」ゆずさんのエッセイ
「想い出と現実」風子さんのエッセイ
子供の頃の時計…。
昔は田舎の大黒柱につきもののボンボン時計。
祖父が自ら建てた家、その家の大黒柱に命を吹き込んだ柱時計。
カッチ、コッチ、カッチ、コッチ…、ボーン!
「あっ、もう三十分経ったんだ。」
ゆっくりと流れる空間で、ふと我に返る音である。
現在(いま)は一分一秒を気にしながら行動している私が居る。いつからこんなにセカセカした生活になったのであろう。
私は幼い時から時計に興味があった。
まだ自分の時計を与えて貰えない頃は、ボールペンで手首に腕時計を描いたものだ。それだけでほんの少し大人気分を味わえた。
初めての自分の時計、それは真っ赤なベルトの手巻き腕時計だ。
スーパーマーケットへ買い物に行く時、必ず立ち寄った店にそれは並んでいた。
ある日、母に連れられた私は、その時計店に足を踏み入れた。
母が言う。「好きなものを選んで良いのよ。」
私はいざとなったら混乱した。迷った。
秒針の動きは私の心を虜にしたのだ。
そして選んだものが赤いベルトの腕時計だった。
最近、赤いベルトの腕時計を新しく購入した。
それを観ていると、初めて持った自分の腕時計を想い出し、胸がキュンとトキメク。
しかし皮肉な事に、現在(いま)私が時刻を知る為に使用しているのは携帯電話の時計機能である。
正確な時刻を好みのメロディで知らせてくれる優れものであるがどこか空しい。
田舎のボンボン時計、カッチ、コッチ、カッチ、コッチ…。
子守唄のようなリズムは情緒があり、私の心を和やかにしてくれる魔法の音色だ。
「日焼けの跡」西田 和哲さんのエッセイ
腕時計。それは僕の憧れ。
あれは僕が中学三年年生の頃だから、もう15年程前のことだ。僕らは夏休みを終え(たいていは宿題もやり終えてはいないのだけれど)久しぶりに学校へ行った。教室では夏休みの楽しい出来事を話し合ったりしている。みんな笑顔で夏休み前と何一つ変わることない。そう、日焼けの跡を除いては。
僕はたずねる。
「どうしたの?その日焼けの跡?」
「いやぁ、夏休み中に腕時計してて。その日焼けの跡なんだ」
彼は恥ずかしそうに笑いながら言う。今思えば、その友達は本当に日焼けの跡が恥ずかしかったのかもしれない。でも、当時の僕にはそれが「俺は腕時計を持ってるんだ」という自慢にも聞こえたし、なんとなく大人びて見えたものだった。
僕が初めて腕時計を手に入れたのはそれから半年後だった。高校入学のお祝いとして、父からプレゼントされたのだ。もちろん僕がとてもうれしかったのはいうまでもないが、腕時計をプレゼントした方の父の(いつもすごく怖かったけれど)あの恥ずかしそうな、なんともいえない笑顔を僕は忘れない。
今の僕は勿論、どこへ行くにも腕時計をはめている。そして、僕の腕にはっきりとある日焼けの跡を眺めては、微笑みながら心の中でこうつぶやく。
「僕、腕時計はめているから」
「時計は、やっぱりセイコーJAPAN」中島 智子さんのエッセイ
私は、今から17年前、23歳の時に、ある製薬会社の懸賞で10日間のヨーロッパ旅行が当たりました。
働いていたので、休暇をそんなに貰えるかどうか憂慮しつつ、恐る恐る上司に申し出たところ「今はそんなに忙しくないから行っていいよ」と言われ<ヤッター!>と思い意気揚揚と出発しました。
行った先は、フランス・ドイツ・スイスで、そのスイスでのエピソードですが、スイスと言えばやはり時計。
私は、大枚?をはたいてロンジンの腕時計を買うことにしました。
当時1スイスフラン=百円だったので、ウインドーの中に表示してある数字にゼロを2つ足せば日本円に換算できました。
私は、1人で時計店に出向き、片言の英語や身振り手振りで、「3万円の時計はないか見せて下さい」と言いました。
すると、外国人が両手の掌を肩の位置まで横に挙げ、飽きれた様子で首を何回も横に振る光景を、テレビでよく観ますが、その男性社員も私に同様の仕草をしました。
<
もうちょっと高いのじゃないとないのかなぁ>と思いながらよーく考えていたら、なんと3万円ではなくて、3千円と言っていたのです。
結局、6万円の時計を買い、途中電池交換はしたものの5年程、宝石箱に寝かせていました。
結婚してから思い出した様に、いつでも、どこでも家事をする時も身に付けていました。
ふと時計を見ると、文字盤の所が曇っていて、時間が見辛くなっていました。
早速、近所の時計店に修理を依頼すると、「舶来品は蒸気が入り易いですもんねー、うちでは修理できないから東京に送ります」だって。
「あーあ、がっかり」
やっぱり時計は精巧(セイコー)な作りの日本製でないと・・。
「ピッタリを探して」kamekameさんのエッセイ
あってもフル活用しているわけではないのに、ないと不安なもの。それが私にとっての腕時計。家では絶対にはずす。腕にしたままだと時間に束縛されているような気になるのだ。普段はぞんざいに扱っていたくせに、見つからないと必死で探した。20歳の誕生日に兄に贈られた腕時計を数年前に失くし、父からの時計も動かなくなってからは、腕時計をしていないまま過ごしている。欲しいな、あると便利なのに、とこの頃は思うことが多いが、気に入ったものが見つからないのでそのままになっている。腕時計に妥協したくはない。これだ、と思えるものがなければ、身に付けないほうがずっといい。私はそういうタチだ。
大学時代に友人から教えてもらった心理テスト。腕時計は恋人や配偶者を象徴するのだという。その人が相手をどう思い、どういう存在であるのかが現れているのだとか。
ある友人は「高価でゴージャス」なものが欲しいと言い、「毎日取り替えたい」と言って、恋人に顰蹙をかった友人もいた。
古代ギリシャの喜劇作家、アリストファネスは、プラトンの「饗宴」の中で、人間はもともと2人の人間が合体していたと言っていた。悪戯がすぎ、ゼウスの怒りに触れ、半分に切断されてしまったのだという。以来人間は自分の「カタワレ」を求めて恋をするようになった。
年甲斐にもなく、私はこのおとぎ話のような彼の説を信じている。そうだといいな、と思う。
三十路を過ぎても売れ残ってしまっているが、もしも「カタワレ」が見つかり、一緒に歩いていくことになったら、指輪ではなく、腕時計を「お揃い」で買いたいと密かに考えている。
場所や人、モノなど。人にはそれぞれに「ピッタリ」があるのかもしれない。いつかそういう「ピッタリ」に出会いたいものだ。
「妻に貰った腕時計 (時計のようにいつまでも)」ほうやはるあきさんのエッセイ (6-7月のベストエッセイ)
30年前に自動巻きの腕時計を貰った。当時ニ部の学生だった私は、バイト先で妻と知り合い卒業後結婚しました。彼女は社会人でデパートに勤務していた。私は安アパート代と小遣い程度のバイトをしていたのですが、卒業もあと半年に迫って、卒論のためバイトも休みがちになっていました。資料集めのため裁判所に一ヶ月ほど毎日通って記録を閲覧し、それが終わってリポートずくり、資料の整理、編集等なかなかうまく進まず、しばしば彼女に八つ当たりしていた。仕事で疲れていたのに彼女はもう少しだからガンバッテと励ましてくれた。そんな彼女には申し訳ないと思いつつも甘えていた私。時には職場の同僚を呼んで、彼女のアパートでパーティを開いてくれたりもしました。やっと論文も提出でき、どうにか卒業できました。ほんとにありがとう。と心の中で感謝してました。就職した私は腕時計とともに仕事をつずけてきました。60歳までには今暫くあるが、今年4月より体調を損ね、2ヶ月あまり休職した後退職致しました。転職組の私に退職金などあろうはずもなく(自業自得ですが。)、70歳まで現役でガンバロウと再就職先を捜していますが、なかなかきびしい現実、適当な就職口もなく沈んでいます。今日も元気に出勤して行く妻を送り出しました。(持病をかかえていますが。)あれから30年今も腕時計は健在です。私もこの腕時計のようにガンバロウと思う。インターネットで公募を知り、妻への恩返しは未だ果たしておりません、何時の日にか必ず果たすと心にとどめ、「あの日のプレゼントを懐かしく、思い出は妻に貰った腕時計とともに。」ありがとう。おかあさん。
「パパと息子の、変身ツール今むかし。」新 和久さんのエッセイ
7歳になる息子の、最近の関心ごとのひとつに「携帯電話」がある。
理由は簡単、お気に入りの特撮ヒーローが携帯を使って「変身」するからなのだが、鳴っている携帯をパパに渡す時の、その誇らしげな顔は、どこかしら、昔の自分を見ているような気にさせる。
私が、そんな息子と同じくらいの目の高さから世の中を見ていたのは、もう40年近くも前になる。
時代は高度成長真っ只中。次第次第と巷に物が溢れ始め、生活も豊かになっていった昭和の40年代である。
しかしその時分は、自身が幼かったせいもあるだろうが、大人と子供の間に、「住む世界の格差」みたいなものを感じていた。
今と違って、大人にならなければ口にすることができないもの、持つことが許されないもの、そんなものが数多くあったように思えたのである。
そして、そんな当時の私にとって、その最たるもののひとつが「腕時計」だった。
「柱時計」が、時間を知る術のすべてだった子供の私には、腕時計の利便性は魅力だった。しかし、憧れた本当の理由は他の所にあったのだ。
当時大好きだったあるヒーローもので、隊員同士が腕時計を使って交信していた。その番組だけではない、当時のヒーローものでは腕時計が必須アイテムで、登場人物たちは皆、工夫を凝らした腕時計をしていたものだ。
だから私は、そんな「隊員の証=正義と強さの証」を、父親の腕の時計に見て取ったのかもしれない。そして、恐らく今の息子とよく似た顔をしていたのであろう。
先日、使わなくなった携帯を息子に渡した。彼はすぐさま、目を輝かせて得意の変身ポーズを取った。それを見た私も、負けじと腕時計でポーズを決める。
その時ふと、黒い文字盤に写る、息子を見る自分の目に気がついた。‥40年近く昔のあの頃、父はどんな眼差しで私を見てくれていたのだろうか。
そして思った。きっと今の私と同じ目をしていたに違いない。親子だもの、絶対そうだ。うん。
「おばちゃんの思い出」Yukioさんのエッセイ (6-7月のベストエッセイ)
腕時計の話ではないのですが。
うちには目の見えないおばちゃんがいた。
正確には祖父の妹。
3歳の時に高熱を出し失明したらしい。
性格はとにかくわがままで家族に対して心を開かず、特にお袋が精神的に参っていた時期もあった。
私の心の中には、おばちゃんは和室で30年物のラジオを前にずっと正座し続ける姿が焼き付いている。
そんなおばちゃんが月に一度饒舌になる日があった。毎月17日。
じいちゃんの月命日。おばちゃんと年の似ているお坊さんが自転車に乗ってお経をあげに来る日であった。
ある日おばちゃんが私に「懐中時計ってまだ売っとるがやろか。いくらくらいするがいろ。」と言ってきた。私はどう返事したか覚えていないが、否定的な返事をしたような気がする。
今から思うとおばちゃんはそのお坊さんを尊敬し好きだったのではないだろうか。そこでプレゼントの意味でその懐中時計を渡したかったのではないか。目の見えないおばちゃんには懐中時計は使えない。
当時中学生だった私はそんなおばちゃんの精一杯の勇気に気づかず冷たくあしらってしまった。
それから数年後。おばちゃんは心臓がちょっと苦しいから何か薬を買って来てくれと言われ買ってきた翌日の朝、布団の中で本当に眠るようにして旅立った。
お葬式にやってきたお坊さんは、おばちゃんが好きだった自転車のお坊さん。
おばちゃんのために一生懸命にお経を読んでくれた。
現在私は28歳。もうおばちゃんが死んでから何年になるだろうか。私は就職して田舎から遠い場所に住んでいる。もし自転車のお坊さんが生きているならば、帰ったときにおばちゃんが望んでいた懐中時計を渡してあげたい。
「叔母が残してくれたもの」兼平 裕子さんのエッセイ
今から、20数年前のこと。大学の入学祝いに叔母からセイコーの腕時計をプレゼントされました。大病院の看護婦長をしていた叔母らしく、その時計はセイコーの最高級品でした。まだ、18だった私は、とても大事にして、なかなか付けて外へ出ることが出来ませんでした。
ある日、学校の授業に遅刻しそうになり、急いでいるところに、仕事へ出かける叔母と偶然会いました。時計をしていないことを尋ねられ、「あんまり高級すぎて、付けられないよ」というと、叔母は「いい時計をしたらそれなりの自覚が出来る。もう大人だから、時間はきっちり守らないかんよ」との言葉。
そのとき、私は腕時計を単なるアクセサリーとしてしか見ていなかったことに気づき、恥ずかしい気持ちでいっぱいになりました。そのときから、ちょっと自分に不釣合いな高級な時計を、四六時中身につけるようにしました。
それから私は教員になり、結婚し、主婦となり、3人の子どもを産み育てています。これまで、時計をいつも身につけることで、決められた時間を守る姿勢を、養ってきたような気がします。
叔母は長年の持病を克服して、多くの患者さんたちに感謝され、仕事をしてきましたが、数年前持病が悪化し、なくなりました。
20数年間私の左腕にあった時計ですが、つい先日、どう修理しても動かなくなってしまいました。もう高級な時計は私には買うことはできないけど、生涯独身で通した叔母の仕事に対するきりっとした姿勢は、私へのいましめとして、叔母の思い出とともに、深く心に刻みこんでいます。
「とまってくれないのはなぜ??」あゆみさんのエッセイ
大好きな人と過ごす大切な時間。中学生の時はいっつも思ってた・・なぜ時間は止まってくれないの?って。部活が終わった後の一緒に帰る時間。とっても大切なのにとっても短い時間・・学校の大きな時計の下でいつも針を気にしながら喋ってたあの頃が懐かしくて、戻りたくて・・あの時計の下に行くと戻れそうな気がするけど一度だって戻れたことはなっかた。でも、今でも心のどこかで戻れるかもしれないって思ってる。今でも大好きな彼のもとに・・私があの大きな時計の事を忘れる時は、私が大好きな彼の事を忘れる時なのかな??
「父と赤い腕時計」まこさんのエッセイ
父は、朴訥無口。威張っていて、昭和の男尊女卑思考が強い。唯一の趣味が野球観戦で男が生まれたら野球選手にさせたかったようだが、なかなか子に恵まれず神仏に毎日すがり結婚10年にして私(女の子)を授かった。しかし私は野球に興味を持つこともなく育つ。しかし中学1年の7月のある日、チケット2枚を会社の人に分けてもらったからと初めて生の野球を父と2人で観戦にいくことになった。
ドームに向かう途中、父は入ったこともない東急ハンズに寄り、時計売り場に入っていくと突然「好きなの、選びなさい。」と命令した。よくわからないまま私が店員と相談していると「これはなんて読むんだ。」と精一杯に不遜にそしてぎこちなく相談に割り込み、「これがいいんじゃないか。」と自分で選び、「中学祝いだ」と私に買って与えた。すたすた歩きだした父の後ろについて、そっと箱から取り出して時計を眺めてみた。最初は派手だと思ったがよく見ると、ワイン色の盤に鮮やかにくり抜かれた白い文字が意外にしゃれていて、父のイメージとのあまりのギャップになんだかまぶしく、くすぐったい気持ちがした。考えてみれば、父から直接もらったはじめてのプレゼント。試合は勝ち、その赤い時計には野球の思い出と父の姿が、強く刻まれた。
しかし中学三年から高校にかけて、父の勤める会社がうまくいかず、我が家は険悪ムードとなり半ば家庭崩壊状態となった。何でも母に押し付ける父に納得がいかず、話し合おうと言ってもナイターを見て「うるせぇっ」の一点張り。野球の記憶がいやなものになっていった。こんなの家族じゃない。それ以来私はあの赤い腕時計をはずし自分で安い時計を買った。
父と口をほとんど聞くことのなくなった高校のとき、父が血を吐いて倒れた。病院に駆けつけると細いからだの父が横たわっていた。いつの間にこんなにやせたのか。
そして今も父は入退院を繰り返している。大学のため上京した私に20歳のプレゼントがおくられてきた。父からの2度目のプレゼントはネックレスだった。「元気にやっていますか。」父の手紙に涙があふれた。今日も元気にやってます。私の左手首にはあの赤い腕時計が私とともに時を刻んでいる。
「還暦。」畠山 恵美さんのエッセイ
おかあちゃんは、一日中働きづめだ。おかあちゃんなしでは、八百屋は動かない。きっと時計を見る暇もなく、日々はくれる。
「私にとって腕時計は、世界にひとつしかないの。お嫁にくる時に、両親がもたせてくれた腕時計」。おかあちゃんの腕に、それはない。休みの日も、飾ることはない。「修理に出したら、買った方が安いって、治してもらえなかったの。どこの時計屋でも。・・・親からもらった大切な腕時計、なげるわけにいかないから、もう腕時計はいらないの」。愛しいように、腕首をなでる。今日も、レジがこんでくる時間だ。
おじちゃん、、4人の子供たち、1客に過ぎない私からでも、腕時計は贈れるだろう。でも。おかあちゃんの腕時計は、永久欠番。おかあちゃんの、おとうちゃんとおかあちゃんと一緒に、娘時代の刻がある。
今年は、おかあちゃんの産まれた『甲申』の年。おかあちゃんの60年は、まばたくきの中の永遠の刻にいる。
「千円の時計」あゆみさんのエッセイ
初めての彼氏。初めての誕生日プレゼント。
男の人って何がほしいのか想像もつかないし、どれくらいの予算で買うべきものなのかも、なーんにもわからなかった当時の私。
毎日毎日いろんなお店に通いつめたっけなぁ。
親に知られてなかったから、バレない程度の小さいものにしなくちゃっていう配慮もあって、なかなか決まらなくて泣きそうだった。
そんな私が最終的に選んだのが、時計のキーホルダー。
予算は・・・恥ずかしながら千円。
その時計のキーホルダーを彼にプレゼント。
最初の誕生日プレゼントだったなぁ。
お返しのプレゼントは、マフラーとセーター。
あまりの値段の差に恥ずかしくてしかたなくて、時計の話に触れられなかった。
だけど、付き合って二年目の時、彼が
「俺の部屋は女の子の部屋みたいだよ。窓のところにはね、時計がさがってるんだ。初めてもらったあの時計。覚えてる?」
恥ずかしかったけど嬉しかったなぁ。
そして今現在。
私は東京の大学に進学して、遠距離の辛さにめげて、彼に別れを告げてしまった。
彼は私を責めなかった。
「あなたにもらったもの、一つ一つを大切にするよ。
素敵な思い出をありがとう」
そう私が言うと、彼も「俺も大切にするよ」と答えた。
今ふと考えると、彼の部屋には、私があげた時計があるんだろうなぁって。その時計はずっと動いていて、思い出はきっと永遠なんだろうなって思える。
たった千円の時計だけど、私たちの思い出をより輝かせてくれてる。
「退職後も働いてくれた時計」稲木 英生さんのエッセイ
定年退職後、夫婦で二回目の海外旅行へ出かけた。行き先はカナダとアメリカの大自然を訪ねる旅にした。日程表にアメリカ入国は3回、カナダが2回とあった。目的地へ直接行く便を選べば、それぞれ1回になる。世界の航空機の便はハブ空港という主要空港へいったん降り、そこから別便でそれぞれ目的地へ向かうようになっている。北アメリカ大陸は広いので、その都度、時差があり時刻修正が必要になる。
今回の旅行では二つの時計を持っていくことにした。一つは今、愛用している日付と曜日の表示がなく、薄型で今でも使えるデザインである。これは在職中に30年勤続でもらったペアウオッチの一つである。もう一つは机の引き出しで眠っていた日付と曜日があり、リュウズも大きく日付や時刻が合わせやすいが、デザインが少し時代遅れになっている。これも在職中に20年勤続でもらった思い出の時計である。
今使っているものは旅行中、日本時間のままにしておいた。もう一つは目的地に到着後に、現地時間に合わせ直し、集合時間に遅れて他の人へ迷惑をかけないよう気を使った。時間を合わせるたびに、分針が正確に合わせられないので、日本時間の時計が参考になった。また、旅行中は現地時間で行動するので、時々、家のことが心配になったときに、日本時間が常に把握できた。
同行の添乗員さんは現地到着後に直ぐ、今の日にちと時間、日本時間との時差を教えてくれた。デジタル時計の人や、時計を修正しないで、日本時間との時差で行動している人がいたようだ。そのため、添乗員さんへの質問で「今、何時ですか」と聞かれるのが一番多いそうです。
今回の旅は、短い日程であったがアメリカとカナダの大自然の一部を知ることができた。忙しいスケジュールを予定通りこなし、無事に元気で帰国できた。現役時代にもらった思い出の時計が、私の現役引退後も、元気に働いてくれたことはうれしかった。
「腕時計と天使の笑顔」川又 智子さんのエッセイ
その朝、私はいつもより早く家を出なければならなかった。
公務員になって1週間。あちらこちらの市の施設を回り、研修する日々。
慌てた私は、いつもの腕時計ではなく、その日に限ってその古い腕時計をして行った。母が祖母から譲り受けたというその時計は、四角い文字盤が渋く金色に光り、ベルトはその頃流行していたアームバンドように伸び縮みした。
余裕の無い朝はよくない。玄関ドアに足を挟まれ、満員のバスで酸欠状態になった私は、足取り重く、市の身障者の施設へ入っていった。大学を卒業したばかりの生意気な私は、言語以外ではコミュニケーションは不可能と信じていたからこの日の研修は、気が重いことこの上なかった。
皆が一様にショートヘアで、言葉にならない声を発し、笑っているのか泣いているのか分からない表情をした彼らと、何をどうしたらいいのか、ひたすら戸惑い、早く帰りたいと願っている私がそこにいた。
そんな中、ひとりの女の子が、私の腕を差し何度も首を振った。
「時計の音がするのが、面白いんじゃない?私のは、秒針の音しないもんなぁ。」
脇にいた同僚の声でハッとした。殆どの人がデジタル時計をしている中、彼女は私の時計の秒針を聞き取ったのか。凄い耳。感心して、腕時計を外し彼女に渡そうとすると、彼女は時計を私の腕に戻し、そのまま腕を取った。そして私の腕ごと自分の耳に腕時計を押し付け、コチコチと首を振り、何度も確かめては、嬉しそうに笑った。
繰り返される彼女の可愛らしい仕草と天使のようなその笑顔に、いつの間にか私の心も温かいもので満たされていた。
20年経った今も腕時計を見るたび、彼女の無邪気な笑顔が浮かぶ。
「白い腕時計の想い出」島田 由美子さんのエッセイ
あれは高校入学の時、叔父が自分の腕時計をくれた。女性には少し大振りの、自動巻きの時計だった。私はそれに白い皮ベルトを付けた。腕を振ると小さく機械を巻く音がした。「ジー」それは時計が放つ小さい息遣いのようだった。正確に時を刻むその時計は、時には私を友達との遊びから無理やり引き戻し、時には答案用紙の白紙の欄を埋めろとせかし、そして想う人との約束に間に合うように応援してくれた。そして私は大人になった。お給料も貰うようになり、好きな物を買う事も出来るようになった。いつの間にかもっと洒落たデザインの小さい時計に取って代わられ、机の引出しに眠っていた時計。それをもう一度使う気になったのは、叔父が癌と闘う事になったからだ。もう長い時間は残されていないと言う事を、周りの人間は知っていた。そして多分叔父も知っていたと思う。私はその時計を叔父に返した。叔父はそれを見て「懐かしいなあ…」と一言言って少しだけ泣いた。叔父が天に昇っていったのは桜が少しだけ薄紅色の蕾を付け、涙のように暖かい雨が空から音も無く落ちてきた日だった。お葬式が終わったあとに従妹が言った。「お父さんはもう一度ユミちゃんとデートするんだと言って亡くなる二週間前までこれをはめて散歩に行ったよ」私は笑って、そして少し泣いた。今の私の日課は毎日一回、この時計を振る事だ。30年前と同じに時計は小さい息遣いで私に語りかける。いつか私が叔父に会う日まで、止まらずに時を刻んでいる事だろう。窓の外をツバメが低く飛んでいる。雨が降ってくるのだろうか…
「夏に向かう花」ばろんばろん さんのエッセイ
花いじりの好きな父は、休日になると早朝から庭先の花畑に行っては、グラジオラス、ダリアなど夏に向かう花を手入れしては、10時になると必ず、お茶を飲みに戻って来て、祖母と花の話をしていた。当時はまだ一般的ではなかった、グラジオラスの花のことを祖母は父に「あのブラジルナスはどんな花が咲くんだい。」等と聞いては、私たち孫をよく笑わせていた。祖母は祖母で、自分の畑を持っていて、とうもろこし、苺などを作っていて、あまり花には興味がなかったらしい。が、父の作っている花は気になるらしかった。10時、3時に決まって連れ立って帰ってきて、話をすることが楽しかったようだった。真っ黒に日焼けした手に、丸型の腕時計をして、父は祖母に買ってもらったと言う自動巻の、アメリカ製の時計を自慢していた。これは水に浸けても動くんだぞと、時計をしたまま水を入れたバケツの中に手を入れて見せたこともあった。
私が小学校5年の時、父がその時計を修理に出して、新しい金時計を買ってきた。父はその時計が気に入ったのか、修理から戻った祖母の時計を床の間の違い棚の上に置いたままにしていた。きれいになって戻って来てはいたが、文字盤は腐食して少し見づらくなっていた。私はその時計を持って「もらっていい。」となにげなく父に聞いてみた。返った返事は「いいよ。」だった。それから祖母の時計は私のものになり、今も使っている。時折父と話をする。「うん、そうだったな。」「そんなことがあったな。」と懐かしそうに昔を思い出しているようである。なぜかこの時計をして、父と話していると、あの頃の自分にすぐ戻ってしまう。祖母からもらった父の時計。もう祖母はいないが、今も当時をリアルに再現して、私と父の間で生きている祖母と、あの頃の時間。腕時計がもたらしてくれるゆったりとした楽しい一時である。
「足首時計」風吹 とうげさんのエッセイ
もう随分と前の話である。父はS市でも、知らない者がいないくらい、その業界では1,2の会社を経営していた事がある。そしてその放蕩ぶりも、凄かった。また年の半分くらいは、アチコチの外国を漫遊していた。留守を預かる母としては、堪ったものでない。そして終にその放蕩ぶりが祟って、その会社は倒産した。普通、家族は路頭に迷うのである。その後父は2度と表舞台に立たなかった。倒産会社の整理、新会社の設立など、母の単独の裁量で取り仕切った。
彼の絶頂期の、外国旅行の話である。その時の様相は、ハッキリと今でも覚えている。帽子は恐らくボルサリーノでロングのコートは、紺のベルベットのスエード風であった。見るからにアルカポネである。そして帰国時には必ず、母の機嫌をとる為に、山積みの御土産を持ちかえる。スイス製の腕時計は決まって6個、持ちかえる。勿論、関税はノーパスであったと記憶する。まず両腕に左右1個づつ。両足首に2個づつの計6個であった。足首の時計バンドは大型フリーサイズの伸び縮みの分に変えてある。母はその時に所有していた高級時計、貴金属類を売り払い新会社の資本金とした。社長は母であった。そのお陰で兄弟四人は2流ではあるが、全員大卒である。新会社はその後次兄が社長となり、今でもコツコツ地道に運転されている。ある時その貴金属類を母は金庫から出して『天気干し』にしていた。そのドサクサに1個だけ私は盗んでしまった。その事を私は、父が癌で死ぬ前に謝った。彼は、その時計はラスベガスで大勝の記念として、そのホテルに還元する為に買ったと証言した。彼はその筋でも、有名なギャンブラーでもあった。盗んだことは、今でも父以外、内緒である。「でその時計はどうしたの?」それもナイショ。
「大切にする方法。」小夜子さんのエッセイ
大好きだった人とさよならした日。華奢で品のある凛とした時計に出会った。毎月のお給料並みの値段。いつもの私ならよく考えて、その結果買わないでいるであろう代物。驚くほど面倒くさい手入れ。それでも私はその時計を買った。時々思い出し尾を引くこの気持ち。この時計を見て、がんばってさよならした私の今日の努力を無駄にしないために。
毎日ねじを巻く。時々日に2度巻く。雨が降ったらやわらかい布に包んでかばんにそっと入れておく。磁気からは遠ざける。3年に一度は1ヶ月のメンテナンスにだす。左腕は極めて慎重に動かす。家に帰るとまず柔らかい布で拭く。
驚くほど手間のかかる時計。今までこんなに大切にしたことなどなかった。自分自身にも、大切な人にも。いつも張り詰めて、心に余裕を持つことなんてできずにいた。今もそれができるほど優雅に、穏やかにいられないけれど、それでもそうしたいと思う。大切なものを、大切な人を、大切にする方法。それを学んでいる。この時計と。
「腕時計と腹時計」ゆずさんのエッセイ
ああ今月もまたやっている、と思いながらも
見ずにはいられない。「夏ボーナスで自分にごほうび!
一生モノのウォッチ大特集」「カレにおねだりは、この時計で決定!!」
派手な見出しに、美人モデルがロレックスをつけて満面の笑み。読者モデルの素人のコだって、オメガにブルガリ、フランクミュラーをはめて「これは大学の入学祝い、これは成人式で・・全部プレゼントなんです」とページ一面、大紹介。
私、ダイヤやプラチナのアクセサリーよりも時計に興味が・・なんてちょっと知的だよね。若いコが高級時計だなんて・・じゃあ、おばさんになったら誰が買ってくれるの?
「わかったよ、オレ達これからも一緒に時を刻もうね」
ってもらった時計はもういくつになるかなあ。ちなみに送り主は全部別の男。
まあ、私だってそれなりに楽しい青春を刻んできた。
最後の時計はすっごく豪華なやつがいい。みんなが私に大注目しちゃうようなのがいいわ。
私はあなたに決めているのよ。私にステキな時計を買って。
あなたも私が好きでしょう?私にはそれだけの価値があるでしょう?私と一緒に時を刻みたいでしょう?
どうして買ってくれないの?お金がないならローンを組めばいいじゃない。
「時計は時間がわかればいいから」「国産の時計が一番だよ」
とお茶をにごしていた彼がついに言った。少し震えている。
「わざわざ豪華な時計がなくても愛は刻めるから、刻むから」
真剣なまなざし。そして私はプロポーズされた・・・わけではない。
カレのお腹がグウ、と鳴ったのである。腹時計かい。
腹時計が鳴らないくらい、いっぱいご飯食べさせたら、その分腕時計にまわるかなあ。せめて今の時計の電池ぐらいは買ってほしい。はあ。
急いでカレの口にじゃがいもを詰め込んでみた。
(事前のご同意)
「思い出の時計エッセイ募集」に送っていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツル株式会社に帰属します。
また、みなさまのエッセイと氏名(ペンネームを記載いただいた場合はペンネーム)を、当ホームページ上に掲載させて頂きますことを、
予めご了承ください。
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