応募期間 2004年1月10日〜2004年12月31日





1年間を通じて、あなたと腕時計との出会い、思い出を綴ったエッセイを募集します。優秀作品は、月ごとに月間ベストエッセイとして発表、月間ベストエッセイ受賞者には、「kodomo-seikoオリジナル腕時計」をプレゼントいたします。あなたの腕時計の思い出、そしてあなたが腕時計と共に過ごした時間のことを800字以内で書いてお送りください。皆様からの応募をお待ちしております。

 


2004年の作品
1月-2月 3月 4月 5月 6月-7月 8月-9月 10月-11月 12月

8-9月の作品(18作品)

8月度のベストエッセイ審査に当たって、応募作品数が少なかったため、事務局で協議の結果、9月度応募作品と合わせて審査させていただくことにいたしました。よろしくお願いいたします。

「母の腕時計」保田 貴美さんのエッセイ
「よっちゃん」加賀条 清さんのエッセイ
「いつまでも」川口 美香さんのエッセイ
「占い師に渡した時計」金子 なおみさんのエッセイ
「姉の最期の贈り物」大橋 晴子さんのエッセイ
「光り物」あやこさんのエッセイ
「受け継いだもの、引き継いだもの」中島さんのエッセイ
「SHOCK!」うっちーさんのエッセイ
「停まらない時計」中村 伊都子さんのエッセイ
「初めての腕時計」森田 真由美さんのエッセイ
「父が言った 「 時計はスイスだね」」鶴野 夢子さんのエッセイ
「新幹線の時計」佐藤 有一さんのエッセイ
「私と腕時計」田口 美恵子さんのエッセイ
「反戦時計」内田 純近さんのエッセイ (8-9月のベストエッセイ)
「念力」金子 雅人さんのエッセイ (8-9月のベストエッセイ)
「眩しさ」ペンさんのエッセイ
「大きな古時計」わかぼんさんのエッセイ
「小さい頃からの時計」李茶さんのエッセイ


「母の腕時計」保田 貴美さんのエッセイ

私が子供だったころ、母の小さな四角い腕時計に憧れていた。結婚する前から使っていたらしい。そのうち母は別の時計をするようになり、その時計のことを皆忘れてしまった。
母は時計が好きで、各部屋に特徴ある時計を飾り、腕時計もいくつか持っていた。記念日のプレゼントは時計か本だった。決して贅沢なものではなかったし、ミュージアムショップの安いものだったりしたが嬉しかった。
大学入学が決まり弟との部屋の交代を機に、家族をあげて家中を整理したことがある。その時、あの小さな四角い腕時計が古い文箱の隅から出てきたのだった。
手巻き式でリューズが回らない。文字盤も汚れていたが、子供の頃の記憶のとおりかっこいい時計だった。入学記念に、その時計を直してもらうことにした。併せて、母と私が其々使っていた時計もクリーニングに出すことにした。

「あぁ、昭和30年代かな、この時計は。」お店の人は簡単に時計を開けて言った。「もう少しよく見てから、直せるようなら連絡しますね。」
次は、私の時計。「これはきれいになりますよ。長く使えます。」
そして、母の時計。「この時計は、水をよく使う人の時計ですね。前の時計とは使う人が違うでしょ。」
本当に驚いた。プロの時計技師はすごい。私にはその違いが見えなかったし、恐らく今でもわからないだろう。

今も私は四角い母の腕時計のネジを巻いている。値打物ではないと言われたが、特別な日にはその時計をする。待ち合わせ場所で誇らしげに時間を確認するために。


「よっちゃん」加賀条 清さんのエッセイ

5時になると隣の自動車修理工場のチャイムが鳴り、前後して、時計のベルが大きな音をたてた。すると、油まみれの「よっちゃん」が工場からでてきて、くわえタバコで自転車に乗って帰っていった。そんな毎日の中で、いつ頃からよっ ちゃんと知り合ったのかよく覚えていない。青森を出てきて50年自動車修理しかしたことがないのを自慢していた。そして、「男は一度自分の道を決めたらやり通さなきゃいけないんだ」と言ってはよくベルトのバックルや、ブックエンド等作って持ってきてくれた。そして、作り方を丁寧に教えてくれたが、当時の私は、もらえるだけで嬉しくてよっちゃんの話など聞いていなかった。そんな話の中で、一度よっちゃんの自慢話から5時に鳴る時計の話になった。するとよっちゃんは急に話し方がお説教じみてきて、物を修理して使うことの大切さ、修理不能だと思われる物を直すことの楽しさを懇々と話してくれた。そしてその楽しさがあったから今まで修理をやってこれたのかも知れない。と付け加えて、あの時計は自分が最初に修理した車のダッシュボードに置いてあった記念のラジオ付時計だと、木箱の時計を持ってきて見せてくれた。もうあの頃の部品はほとんど残っていないが、俺にとっては大事なものなんだ。「ところでこの時計なにいろにしたらいいかな?」と私に聞いては、月に一度位色や、形を変えて楽しんでいたようだった。今、私が機械の設計の仕事をしているのも、物作りの楽しさ、大切さを知らず知らずのうちに教えてくれたよっちゃんの影響が大きかったと思っている。
大学を出て、就職した話をした時、黙ってこの時計を工場から持ってきて、「お祝いだ」とプレゼントしてくれた。よっちゃん、今もこの時計ちゃんと動いてるよ。ちょっと現代風な外装と、ステレオTV時計DVD付にしちゃったけど。


「いつまでも」川口 美香さんのエッセイ

中学2年の冬、誕生日を前に母親に誕生日プレゼントに目覚まし時計をねだった。
それまでの目覚ましはコチコチと秒針の時を刻む音が気になった。そして何よりも、父からのお下がりだった事が思春期の私には一番イヤだった。
そして、その頃出始めた液晶デジタルの目覚まし時計を手に入れたのだ。まあるいボディに直線の数字を表示し、目覚まし機能の他にタイマー機能、段々音が大きくなる機能などその頃の私を満足させる逸品だった。
買った時計屋の叔父さんの話では液晶の寿命は数年との事だったが10年ちょっと現役で頑張ってもらった。その後、数字が欠けるようになってしまい新しい目覚まし時計を自分で買ったが、『壊れてるんじゃないからなぁ〜』と捨てられず今でも実家の私の部屋で時を刻んでいる。これからもずっとって訳にはいかないだろうけど、末永く私を見守って欲しい。


「占い師に渡した時計」金子 なおみさんのエッセイ

私は大学卒業以降勤めていた会社を辞めて、ニューヨークでの語学留学の為、マンハッタンにインド人のルームメイトと住んでいた。東京にいた頃付き合っていた彼に別れをつげられ、仕事や他の友人ともうまくいかなくなり、全てを投げ出してここへ来てしまったという感じだった。
学校のクラスで仲良くなった女優を目指しているというフランス人の女性と親しくなり、将来に不安を覚える同年代の私たちは占い師の所へ行くことにした。
マンハッタンには至る所に占い師の看板を掲げたあやしげな店がある。その中でその友人が誰かに薦められたという占いの館へ行くこととなった。
扉を開けて目に飛び込んできたのがキリストや十字架である。いたる所にかざられていて、中から若い女性が赤ちゃんを抱きながら出てきた。7月の夏の日差しが部屋に入って何やら健康的である。彼女はまず、私の方を見て、こちらへ来るようにと、かなり強いロシア語のアクセントの英語で言った。
私は一人、別の部屋に行くと、そこは薄暗くろうそくが何本かともしてある占いの部屋といった趣のある所だった。
そこでいきなり、彼女は私に今身に付けているもので一番古い物を出すようにと指示してきた。私は5年前に自分で気に入って買った時計を彼女に渡した。他に身に付けている洋服は全て2年以内に購入した物ばかりだ。
どうするのかと見ていると、彼女はその時計に手を置いて目を閉じて時計から何かを感じとろうとしている様子だった。
こんなので何が分かるのかと思っていると、彼女はゆっくりと目を開けて、手を時計に置いたまま、
「あなたは数年後に再びニューヨークに戻ってくる」と言った。
まあ、旅行でもう一度来る事はあるだろう、と思ったら彼女は続けて、「数日後に知り合う人間を追ってニューヨークに来てあなたは、ここに住み続けるだろう」と言った。
あれから、5年たった現在、東京に住む私はあの時の数日後に知り合った男性のいるニューヨークへ来年行き、永住するつもりである。


「姉の最期の贈り物」大橋 晴子さんのエッセイ

今まで私は時計というのにまったく興味もなく仕方なく仕事など、どうしても必要な時以外、腕時計もしないタイプだった。
でも、今つくづく振り返るといろいろな思い出があったのだと気づかされた。
一番最初は小学生の頃、初めて懸賞というのをハガキで応募し
たのがきっかけだった。かわいい掛け時計が当選して自分の部屋
に飾った記憶がある。
そして次は、祖父に進学のお祝いに買ってもらった腕時計。主人は、私と違い腕時計が大好きで、結婚する時私にもとプレゼントしてくれた腕時計。もちろん、この私のことだから、最初だけつけていたが、今は止まったままである。電池交換もめんどくさいからだ。 
それくらい腕時計と無縁だった。
今年の春、最愛の姉が事故で他界。私には人生最大の悲しみ寂しさで今でも辛くて一人で泣いてしまう。
私と姉は七歳はなれているので、小さい頃から遊んで優しくしてくれた思い出がない。仲良くしだしたのは、お互いが結婚し主婦になってからだった。
喧嘩もよくしたけど、一番姉は私の理解者であり、私のよき相談役であった。それがある日、突然の事故死。ショックというか
なんともいえぬ悲しみを突き刺された。
形見で私に届けられたのは、高価な時計。サイズも合わなければ、まき方もわからない。困り果て、時計屋で教わった始末である。
それ以来、私にとっては一生忘れる事のない大切な大切な腕時計となった。思わず時計をみるたび、ジーンとこみ上げるものがある。「姉ちゃん、いつも一緒に泣いたり笑ったりしようね。いっつも一緒だよ!」
でも、やはり最初のうちだけその腕時計をはめていたが、結局今では、その時計も時間が止まったままで一番よく目にとまる私の大事な棚に飾っている。どんな事あっても、この時計だけは、一生飾り続ける。姉とずーと、これからも一緒だから。


「光り物」あやこさんのエッセイ

「今まで生きてきた中で自分が所有した腕時計の数は?」と聞かれたらその答えは「覚えていません」となるでしょう。私も全く覚えていないし、第一そんな事覚えたところで何も役に立つ事はないでしょうし。。。でも私にはたった一つだけ今でも思い出に残っている腕時計があります。その腕時計は高校の入学祝いに母が買ってもらったもので、シルバーのチェーンブレスレットに光沢のある青色の小さな丸い文字盤そして時間表示は数字ではなく小さなダイヤの形をしたガラスが組み込まれていると言った感じのものでした。それまでは男女兼用の黒色の全く飾り気のないソーラー時計しか持った事がなかった私は、買ってもらった日の夜はそれを腕にはめて蛍光燈に瞬く腕時計を熟視したものでした。そんな子供らしい行為の裏腹ではその腕時計を身につける事で妙に自分が大人びた感じになるのを感じました。俗に言う「光り物」を身につけると言う事が自分をそんな感覚に導くのでした。
新学期が始まり学校の生活に慣れるまでは朝は少々寝坊したり教科書を授業に忘れたりとドタバタしていたけれど、この時計だけは毎日忘れる事もなくきちんと腕にはめて登校しました。授業の合間にはハンカチで文字盤のカバーを丹念に磨いたり、文字盤を日光に照らしてまたそれを熟視したりしました。
時と共に時計には買った当時の様な輝きはなくなって、私自身の気持ちの中でもこの腕時計を気にかける事も自然になくなり時間は過ぎていきました。その後私は何度か腕時計を変えたけれど「どんな時計だったか」とか「何度買い替えた」とかは覚えていません。一つだけ覚えてるのはそれらは「光り物」だったと言うだけで。。。


「受け継いだもの、引き継いだもの」中島さんのエッセイ

ダイエットのため、夜マンションの周りを一時間ほど歩いている。「長くは続くまい」との家族の期待を裏切り、一年以上継続した。その効果あり、十キロ以上も痩せた。
この時も腕時計は必ず締める。ハンカチも財布も携帯電話もおいていくのに・・・。書斎に戻ってもすぐに腕時計を机の上に戻す。目覚まし時計の方が見やすいのに、生活上、腕時計が頼りだ。
時計、洋服や下着や靴よりも何時も一番、身につけているもの。お気に入りの時計だけを一つ、大切にするのも私の意向。そんなに高価なものでなく、妻とスーパーマーケットに出向いた折、前のが壊れかけていたので、清水の舞台から飛び降りたつもりで買った日の記憶は今も鮮明である。
話が大きく飛躍するが、娘が幼稚園に通っていた頃、妻が嘆いていたことがある。玄関で待っていると、我が娘だけがブラウスを腕まくりして出てくるらしい。他の園児はきちんとした格好なのに・・・。多分、私がワイシャツを腕まくりしているのを受け継いだのだ・・・と女房からは非難ごうごうだった。
DNAを継承した娘が颯爽としているように、私は元来、腕にわずらわしいものをつけるのは苦手なのだが、腕時計だけは違う。中学に入った時、やさしい祖父に買って貰って以来、ずっと愛用している。
一方で私が「受け継いだもの」。それは腕時計をいつも進めていること。今は正規の時間より15分進めている。数年前は10分だった。これは母の主義。母は家にある時計を大概進めていた。こうしておくと、切羽詰った感覚を回避できるらしい。電車でつり革に捉まり、横の人の手の腕時計より15分早くても平気だ。家の時計もそうしたいが、家族を説得できなくて、正しい時間が刻まれている。


「SHOCK!」うっちーさんのエッセイ

私は小さい頃から腕時計が好きだった。父が好きだったからだ。
小学校の頃に初めて父からもらった腕時計は、G-SHOCKのデジタル時計だった。私はもちろん次の日に学校につけていき、友達に自慢して歩いた。父が使わなくなった腕時計を次から次へともらい、学校につけていった。先生に注意されたって、かまわずつけていった。
高校受験の時、あまりにも勉強をしようとしない私に、父は言った。
「希望の高校に受かったら、お前の腕時計を買ってやるよ」
私は塾にも真面目に通うようになって、そんなに難しい高校ではないのにバリバリと勉強した。夏休み明けのテストでは300人中250位だった成績が、60位にまで上がっていた。
無事、志望校に合格し、私と父は一緒に近所のショッピングセンターに腕時計を買いに行った。親子二人でどこかに出かけるなんて何だか恥ずかしくて、この買物は本当に久しぶりに二人で出かけた。私は時計店を見つけ、ショーウィンドウにへばりついた。私は「これがいい」とやはりG-SHOCKの、でも今度はアナログの腕時計を指差した。「何かの機能がついてるのかな」と私は独り言を言った。父はそのまま店員さんに質問した。
「これ何か機能ついてますか?」
「はい、バックライトとか」
父はうなづいている。私もうなづいた。
「あと目覚まし時計とか」
えぇ!目覚まし時計ついてんの!?アナログなのに??
父はうなづいていた。
「あとストップウォッチとか」
うそぉん!アナログでストップウォッチなんて聞いたことないよ!
父はまたうなづいている。
「あと簡単な電話番号登録とかですね」
これはもはや別の時計の話をしているに違いない。私の指差した先の別の時計だと勘違いしているに違いない。
「手にとって見てください」
店員が取り出した時計は間違いなく私の指差した時計だった。
「これでいい?」
と父に聞かれた。本当にカッコイイ腕時計だったので、私は「うん」とうなづいた。
もちろんストップウォッチや電話番号登録なんて機能はついていなかったけれど、私は3年経った今でも、この腕時計を愛用しています。


「停まらない時計」中村 伊都子さんのエッセイ

携帯があれば時計はなくてもそんなに困らない。けれど、携帯は買うときから次の機種を買うことを考えている。そこは時計を買うときと大きな違いだと思う。
先日、停まった時計を見た。バンドの部分は壊れていて、文字盤だけが時を示して停まっていた。事故死した友人の時計。小学生の時、8月6日は登校日だった、原爆の事を勉強し、犠牲者の冥福を祈った。ふと、その時にたぶん、ビデオで見た停まった時計を思い出した。あの時計も時を示して停まっていた。
ここにいるとイラクの事がリアルに感じられないけれど、ニュースからアメリカ兵の死者が1000人を超えたとか、色々聞くけれどあまり考えたことがなかった。けれど、今も世界の色んな所で時計が停められているのだろう。引き裂かれる様に時を停めないで欲しい。皆誰かの愛しい人、は林真理子さんの小説だったっと思うが、私の知らない人も誰かの大切な人なんだ。私の友達の時を奪い去った様に誰かの時が奪われないで欲しいと思う。一緒に時を刻んだ時計は、一緒にお墓に行くのもいいし、受け継ぐ人がいれば私の時を受け継いで欲しいと思う。だから、世界に沢山の停まらない時計が欲しい。平和とか大きなテーマじゃなくて、ただ、大切な人の時を無理矢理奪わないで欲しい。ただ、それだけの事。


「初めての腕時計」森田 真由美さんのエッセイ

初めて腕時計を手にしたのは小学校三年生の時だった。誕生日プレゼントとして貰った細長い包みを解き、中に入っている腕時計を見た時の感激は、それから三十年たった今でも思い出すことが出来る。当時、小学生にとって腕時計など、分不相応なものだった。そして、それをくれたのは、母の恋人だった。
母は、「こんな高いもの‥」とかなり恐縮していたが、母の恋人は、「初めての腕時計は思い出になるからね」と言い、私が喜ぶ顔を嬉しそうに見つめていた。
三人でドライブに行った山。郊外の遊園地。ボーリング場。思い出はどんどん増えて行き、写真に焼き付けられたその瞬間、私の腕にはいつもその時計が巻かれていた。私はいつかその人が、自分の父親になるものと、信じて疑わなかった。
けれども、それが実現することはなかった。相手の両親の反対に合い、母が身を引いたのだ。当時、子持ちの女と再婚するのはかなり障害があったのだ。「元気でね‥」悲しそうな顔でその人は言った。それがその人を見た最後だった。
いつの間にか「初めての時計」は無くなってしまった。その人も「始めての時計」も、悲しみと懐かしさにあふれた思い出となった。あの時計‥どこへ行ってしまったんだろう‥。


「父が言った 「 時計はスイスだね」」鶴野 夢子さんのエッセイ

「お父さん 腕時計がいい」
高校合格に何が言い?と聞いた父に 私は腕時計と答えた。
あの頃は まだまだ日本も豊かといえない時代。
高校生になったら 腕時計をして通学する。私の憧れだった。
数日後父と評判の時計屋さんに出掛けた。
時計で店中が キラキラ輝いていた。
ショーウインドーの中から 2.3個店員さんが出した。
「どれがいい?」と父が聞いた。
「これ」と言って私が手にしたのは 四角い金色の時計。
赤いベルトが付いていた。
赤いベルトが私を大人になった気にさせたのだ。
「やはり時計はスイスがいいね」と父は店員さんに言った。

あの時計は 今は引き出しで眠っている。
デジタル時計と言う 便利な時計が私の腕にある。
日々の忙しさにピッタリの時計だ。
赤いベルトの時計は古ぼけたけど キラキラした私の青春。
奮発して買ってくれたであろう 父との想い出。
いつかゆったりした日に この腕にはめてみよう。
青春が蘇るかも・・・


「新幹線の時計」佐藤 有一さんのエッセイ

ぼくは鉄道が好きだ。その中でも新幹線が大好きだ。そんな5才ぐらいの時に、新幹線で父親の実家のある秋田に行った。帰りに乗った新幹線の中で、僕の目をくぎづけにしたのは、新幹線グッツであった。その時、父親に買ってもらったのが今も愛用している腕時計である。その時計の表には、秒針が針の代わりにその新幹線が秒針の役割をはたすというなんともユニークな時計なのである。
その時計をして、今度は母親の実家に行った時、駅で待っていた、おじいさんの手には包帯をしていたので、歩きながら、その包帯なんでしているのと聞くと「時計のうらがカビないようにするため」と言っていたので、いっしゅん「ハァー」と思ったのだが、時計のうら側は鉄だからだ、と思い安心した。
同じく、時計をしている時、じゅくで、時計の話になった時、先生が「親友にスイスの鉄道の時計や君(自分)のように新幹線の時計よりもセイコーの時計の方がいい」と言ってたので、また一生の思い出が増えてしまったと思う。
まぁ、これからもこの時計と共に歩んで行きたいと思う。


「私と腕時計」田口 美恵子さんのエッセイ

小学生のころ、腕にマジックで描いた時計はいつも8時をさしていた。動かない時計でも、のぞきこむふりをするだけで大人になったような気がしたものだ。
初めて自分の腕時計を持ったのは高校に入ってからだった。入学祝に叔父からもらった青い文字盤の腕時計。スタイリッシュでかっこよくて、特に文字盤の色が気に入っていた。通学の電車の中でその色をためつすがめつながめてはうっとりしていた高1の頃。ところが2年生になった頃友達のシンプルな時計が気になってきた。友達は文字盤が手首の内側になるように腕時計をつけていた。ちょっと手首をひねって時計を見るしぐさが、おとなっぽく見えてさっそく真似をしてみようとしたが、どうもしっくりしない。友達の時計のバンドは皮製で、わたしの時計のバンドはステンレス製だった。急に自分の時計が色あせて見えてきた。自分も手首をちょっと返しながらみられるような時計がほしいと思った。
自分で働くようになって初めて皮バンドの腕時計を買うことができた私は、それ以来手首の内側に向けて腕時計をつけている。
私にとって腕時計はいつも「大人」の象徴だった。携帯電話が時計がわりという人が増えているが、ちらっと時計をのぞきこむときに感じるときめきには、やはり捨てがたいものがあると思う。


「反戦時計」内田 純近さんのエッセイ (8-9月のベストエッセイ)

毎年8月になると、やさしかったおばさんの事を思い出します。やさしいおばさんの宝物は一個の懐中時計でした。
帝国海軍の潜水艦に搭乗していたご主人の形見の時計とのこと
でした。裏蓋に「賜」の一文字が彫られておりました。
お盆になると紺色のビロードの箱に入れられて、お仏壇に飾られ、チクタクと平和な時を刻んでおりました。私たち悪戯小僧が
「賜」の意味を聞いたとき、おばさんはとても悲しそうな顔をして教えてくれました。
○大好きだったご主人は、秘密の命令を実行中に沈没した潜水艦と共に沈んで、遺骨も帰ってきていないこと。
○懐中時計は「恩賜の時計」といって、優秀な軍人だったご主人 が昭和天皇からいただいたこと。
○いただいた当時は大変名誉に思ったこと。
 しかし、おばさんのような悲しい未亡人を多くつくる戦争は二度としてはならないこと。
○毎年、お盆になると永久世界平和を祈っていること。
・・・などを一生懸命に教えてくれました。幼な心におばさんの悲しみが伝わってきて、私たち悪戯小僧も神妙な顔をして聞いておりました。その後に貰ったお菓子の味が忘れられません。
昭和の時代を生き抜いたおばさんが亡くなった時に、その「恩賜
の時計」も棺(ひつぎ)にいれられました。
世界平和を祈る「反戦時計」となって、永遠に平和な時を刻んでもらうために。
それが、昭和天皇、おじさん、おばさん、みんなの心に適うことだと信じたから。


「念力」金子 雅人さんのエッセイ (8-9月のベストエッセイ)

ぼくがまだ中学生の頃だったか、ユリ・ゲラーという超能力者が来日し、日本中が超能力ブームに沸いたことがあった。某テレビ番組では、そのユリ・ゲラーが視聴者に向けて「念」を送り、動かなくなった時計を動かすという企画が行われ、ぼくは茶箪笥の引き出しの奥に動かなくなった女性モノの腕時計があったことを思い出し、さっそく取り出してテーブルの上に置いてみた。それはかつて、おやじが国鉄を退職した際に国鉄側から贈られた記念品だったが、おふくろがエプロンのポケットに入れたまま洗濯してしまい、それ以来動かなくなったということだった。
もちろん超能力なんて信じていなかったし、その腕時計が動かなくなった経緯を考えても、到底動くとは考えられなかったので、面白半分にテレビの向こうのユリ・ゲラーの指示どおりに腕時計の上に手をかざすこと数十秒、なんと、信じられないことに、数年間止まったままだったその腕時計が、「コチコチ……」と小気味よい音を発して動き出したではないか!! ぼくは驚いた。しかしそれ以上に驚いたのは、当のおふくろだった。実はおふくろは、自分の不注意で記念の腕時計をダメにしてしまったことに、心底落ち込んでいたのだった。
その日、おふくろは喜々として家事をこなした。そして、おやじが何の相談もなしに国鉄を退職して自営業を初めて以来ずっと険悪なムードだった夫婦仲も、その日を境に心なしかうまくいっているように見えた。
結局その腕時計は、「念」が切れたのか一週間くらいでまた動かなくなってしまったが、おふくろのご機嫌と良好な夫婦仲だけは相変わらず続いていた。
ユリ・ゲラーが動かしたのは、止まった腕時計だけではなかったのかも知れない。


「眩しさ」ペンさんのエッセイ

小学生の頃、私は、酷いアトピーで父と月に一回有名な東京の病院に通っていた。通勤時間のラッシュは凄くて、その頃、冷房車が無く暑い夏の日は人混みの中に埋もれながら電車に揺られていた。病院に行く事も東京に行く事も楽しくは無い中でいつも、心をドキドキさせる光景がそこに有り、唯一の楽しみだったかもしれない・・・
それは、サラリーマンのスーツから覗かせる腕時計と手首で、車内でのつり革から出る腕時計や時計を見る光景もそれなりに良かったのだけれど、私の中では一番のビューポイントが有ったのだ。そこは、電車を乗り換えしようとする沢山のサラリーマンが駆け上る構内の階段で、2段抜かし3段抜かしで駆け上る大人達から見える腕時計は、キラキラと輝き下から眺める私は、余りにも眩しく輝いていた。その輝きは、大人の働いている男の人が持つ輝きで、大人になった証の輝きのようにも見えたのだった。時間に追われているサラリーマンが、その頃の私にはとても美しく腕をしめつけている時計と時間が、子供の私には近寄りがたい大人であり、朝日の中を駆けあがる大人の階段の音を聞き、それはとても心地よい風景と音だったのだ。
その写真のように焼き付いている光景は、自分の病気の憂鬱さをしばし忘れ普段見なれない大人の集団で、尊敬に近い気持ちだったように今でも思うのだ。


「大きな古時計」わかぼんさんのエッセイ

私の祖父母の家には、代々伝わる古時計がある
おばあちゃんのおばあちゃんの頃からの時計らしい
毎年田舎に帰ると祖父母と大きな古時計が私たちを迎えてくれた
広い居間に飾られ、何十年もそのまた何十年も大家族を見守ってきた古時計
幼い頃は「ボォーン ボォーン ボォーン」と言う時間をきっちり知らせてくれる古時計に聞き入っていたものだ
祖父母の家は古時計の時を知らせる音とともに始まり、時を知らせる音で眠りに入った
私ももう、一人の子の母になった
田舎に帰ることはほとんどなくなった
今では祖父母のいない広い居間で、今度はおば夫婦のために大きな音で時をつげているらしい
今年は亡くなったおじいさんの法事がある
久しぶりに田舎へ帰り、体中で古時計の音色を感じることにしょう
元気な頃の、祖父母に出会えるかもしれないから・・・


「小さい頃からの時計」李茶さんのエッセイ

いつも、
じいちゃんとばあちゃんにお正月会いに行く
小さい頃はもっと行っていた
そのときいつも
カチカチ
カチカチ
カチカチ
となっていて
たまに
ボーン
となる時計があった。
それが大好きで大好きでたまらなかった。
珍しくて珍しくて
家にはない時計。
夜になると余計に響いてそれを聞いて寝ていた。
その時計は時々止まって
ゼンマイをまわしたらなぉる時計。

ある日、

お正月にばあちゃんの家へ行ったら
その時計はとまっていた。
夜に響く音も、たまに聞こえるボーンという音も
全てが静まっていた。
生まれてからすぐあったその時計ヮ
すでにとまっていた。
私よりも早くとまっちゃった・・・。
悲しくなんてなぃ。
別に気に止めなければィィ。
でも・・・
その時計はきっと生活を見ていたんだ。
きっと
時間を見るだけの時計ではないって教えてくれてたんだ。
カチカチ
カチカチ
カチカチ
ボーン
っと響く時計が懐かしい。
古い時計が懐かしい。


(事前のご同意)
「思い出の時計エッセイ募集」に送っていただいたエッセイの著作権は、セイコーインスツル株式会社に帰属します。
また、みなさまのエッセイと氏名(ペンネームを記載いただいた場合はペンネーム)を、当ホームページ上に掲載させて頂きますことを、
予めご了承ください。